弱くてもいいよ? ≪施設長 樋口≫
5月の連休明け、退職代行サービスの会社が大盛況、というニュースを見かけた。
ああ、みんな連休中にいろいろ考えちゃったんだな……なんて、妙に納得してしまう。
それにしても、ハラスメントだなんだと騒がれる今の時代、退職代行なんて使われる会社って、いったいどんな環境なんだろう?という好奇心が湧く一方で、人生のターニングポイントを赤の他人に委ねる社会人って、どんな人でどんな気持ちなんだろう?とも思う。
ブラック企業がまだまだ多いという証拠なのか、はたまた「お疲れ気味な日本人」や「弱い日本人」が増えているだけなのか……。
もしかすると近い将来、面接で「退職代行を使ったことはありますか?」なんて聞かれる日が来るのかもしれない。
「はい、便利だったのでまた使いたいです!」とか答えたら、逆に“令和型タフネス”とか評価されるかも(されない)。
でも最近は「弱くてもいいよ」って言葉が、ずいぶん自然に聞こえる時代になった。
これはこれですごく素敵なことだと思う。
昔なら「根性が足りん!」と一蹴されて終わってた場面でも、今は「そのままで大丈夫」と言ってくれる人がいる。
SNSなんて、会ったこともない人が全力で寄り添ってくれる世界だし。
「弱さを認めてもらえる」って、実はめちゃくちゃ大きな救いなんじゃないか、と感じたことがある人、少なくないはずだ。
で、最近ふと考えたことがある。
この「弱くてもいいよ」って優しさ、
もしかしてちょっとずつ進化(あるいは変形?)してない?
「弱くてもいいよ」→「もっと弱くてもいいよ」→「ずっと弱くていいよ」って流れになってないか?と。
話はちょっと自然界に飛ぶけど、野生の世界では、弱い者は容赦なく淘汰されてしまう。
ライオンが獲物を取れずに群れで慰め合っている姿なんかまず見ない。
「今日も狩り失敗しちゃったね……でもいいの、あなたはあなたのままで素敵」なんて慰め合ってたら、たぶん全滅してる。
でもだからこそ、生き物たちは工夫し、進化して、知恵をつけて、サバイバルしてきたわけだ。
たとえば、弱い動物たちは群れて、支え合って、でもただ依存するんじゃなくて、ちゃんと「生きる力」を使ってる。寒い時はくっついたり、群れでいる事で敵に襲われにくくなったり。
自然界は厳しいけど、実に理にかなってる。
一方、人間社会はちょっと違う。
医療も福祉もテクノロジーもあって、「弱さ=即アウト」ではない。
むしろ、誰もが何かしらの弱さを抱えていて、それでも生きていけるようなシステムが整っている。
これは本当に素晴らしいことだ。
ただ、その優しさが「変わらなくていい理由」になっていないか?という疑問もある。
「どうせ自分は弱いから」って、努力をやめたり、責任からフェードアウトしたり。
それがクセになると、自分の中にある「成長のスイッチ」の押し方もわすれてしまい、しまいには押す気すら失せてしまう。
それでも生きていけるのが人間社会だ。
もちろん一方で、忘れてはいけないのが、素晴らしいはずの人間社会特有、“ハラスメント”という厄介な問題。
「努力しろ」「強くなれ」――この言葉が、時として暴力に変わることもある。
強さばかりを正義とする社会では、「強い言葉」が評価され、「強引な態度」が出世してしまう。
その結果、「指導」の皮をかぶった威圧や、「期待」の名のもとに仕組まれた支配、「助言」風の人格否定が、横行するようになる。
ハラスメントは「強さの押し売り」から生まれる。
それは、弱さを認めない文化の裏返しでもある。
「私が若い頃はね」「昔はね」って言い出した人がいたら、
一度深呼吸して、聞くかどうかを慎重に判断した方がいい(場合によるけど)。
だからこそ、「弱くてもいいよ」という言葉には、ちゃんと意味と方向性を持たせたい。
それは決して、「このままでいいよ、弱いままずっと寝転んでていいよ」ではなく、
「弱さに寄り添いながらも、少しずつでも一緒に前に進もう」っていう姿勢のことだと思う。
「弱くてもいい」と認め合える社会は、とても人間らしく、やさしく、美しい。
でもそれは、「みんなで弱さに甘えていよう」という合意ではないはずだ。
誰かに寄りかかったっていい。ときには転んだっていい。
でも、できるならその場に寝転んだままじゃなくて、ちょっと笑いながら起き上がれたら、それでいいと思う。
「弱くてもいいよ」――その言葉が、甘えの終着点ではなく、
誰かと一緒に歩き出すための、優しいスタートラインでありますように。
(退職代行なんか使わなくても誰もが当たり前に退職できますように)